【委員会】平成22年5月18日 平成22年_総務委員会
【委員会】平成22年5月18日 平成22年_総務委員会
2010.05.18 : 平成22年総務委員会 本文
◯吉原委員 きょうはお忙しいところ公聴会にお越しをいただきまして、ありがとうございました。
今、さまざまな専門的なお話も加えて、大変、私自身も勉強になったなというような思いをしております。それは、先ほどお医者さんである赤枝先生のお話もるるございましたが、評価をするその観点、今の社会情勢も見ながらその上での見る観点も、その方々によって大きく違ってくるなということを、今つくづく感じたわけであります。
そんな中で、単純に、大変恐縮でございますけれども、我々はとにかく子どもを守っていかなければならない。それが健全な子どもを育てていくことの大人の役割だと、こういうふうに単純に思っているわけでございますし、それは事実だろうと、当然のことだろうというふうに思っているわけであります。
そういう現状に対して、先生も、今、子どもたちがどういう状況になっているのか、どういう状況に置かれているのかということは十分ご案内だというような思いでお尋ねをしたいと思いますけれども、今の現状を何とかしなきゃならないなという思いが、私は、我々と変わらないなというふうに思っているわけでありますが、その点について簡単にちょっと教えてください。
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◯宮台参考人 吉原委員、ありがとうございます。
まず、現状をどう理解するのか。観点はそんなにたくさんはないんですね。
まず、性犯罪はどんどん減っています。凶悪犯罪もどんどん減っています。凶悪犯罪というのは強盗、強姦、放火、殺人ですけれども、どんどん減っています。これは統計データがはっきりさせているところです。強制わいせつについてだけ、二〇〇〇年代半ばから、特に痴漢の取り締まり等が厳密化されたことによってカテゴリーが変わりましたから、警察統計上は変わりました。しかし性犯罪はどんどん減っています。
なので、そこに強いて問題を発見する必要はない。あるいは殊さらに新しい問題が出てきたというふうに私は認識しておりません。むしろ問題は、子どもたち、青少年の、わかりやすくいえば生きる力がどんどんなくなってきていること。それは、例えば一つ、判断能力であるし、交渉能力であるし、危機回避能力、こうしたものがどんどん減ってきているというふうに思います。
例えば典型的には、子どもがいわゆるエロ本やエロビデオを持っていたときの親の対処の能力。というか、それ以前に、例えばわかりやすい例、昔、近隣騒音があれば、ちょっとこういう事情で迷惑なのでやめてくださいというふうにいったはずが、最近になればなるほど、いきなり警察あるいは公権力の呼び出し線を使うようになっています。それとよく似ているんですね。
子どもがエロ本を読んでいた。だったら、親が子どもにコミュニケーションして、これについてどう思っているんだ、ここにはレイプが描かれているぞ、このレイプはどうなんだ。子どもの判断を聞くべきなんですね。父ちゃん、これさあ、レイプが描かれているけれども、レイプを通じて、傷ついた女の子がどうやって回復するのかということが描かれているんだよ、だからこれはすごい学びになるんだというふうに子どもがいう。お父さんが、ううん、それにしてはちょっとえぐいと思うけれども、おまえがそういうならいいのかもしれないな、というようなコミュニケーションをすべきなんですよ。
それが、子どもがレイプが描かれた漫画を読んでいる、行政の呼び出し線を使う。おかしくありませんか。つまり問題は、我々が何かというと行政の呼び出し線を使うようになってしまい、そのことのおかしさに気づいていない。親子のきずな、親子のコミュニケーション能力、親子の共同性、親子で問題を解決する力、それがどんどん減ってきているということが、現象的にはいろんな問題を生み出しているというふうに考えます。
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◯吉原委員 確かにおっしゃられるとおり、そうだと思います。
しかしながら、現在の社会では共稼ぎのご家庭もかなり多くなっているわけでございまして、先ほど赤枝先生からもご指摘がありました。とにかく親子の会話を多くしなければだめだと、こういうお話もあった。もうそのとおりではありますけれども、そういった意味では、当然のことながら家庭教育というのは大切でありますけれども、家庭教育にも限界というものもあるわけでございまして、そういったものを今後どういう形でやっていくのかなと。
先ほども、再度そういうお話をして恐縮でございますけれども、赤枝先生の場合はお医者さんでございますので、日々、六本木という場所、土地柄も含めていろんな子どもたちを見ておられるようであります。小学生の低学年から高校生も含めて、高校生を卒業した方々も、いろいろ相談に来たりお会いをする機会が多分にあるようであります。
そういったことをいろいろ、日々の経験の中では何とか子どもを助けたい、こういう思いがお強いようであります。それは、医学的にも感情的にも精神的にも肉体的にも全部のことをいわれているんだと思いますけれども、しかしながら、本来は教育でそういうものもしっかりと、家庭の教育、社会の教育の中で育てるべきだと、こういわれていたわけであります。
しかしながら、今、教育を通じてということは、もう二十年も二十五年も前からやってきたんだと。だけれども、そのことがいまだに、しっかりとした性教育も含めてなかなか今日に至っていないんだと、こういうお話であったような気がいたしました。これはちょっといい方、いい回しが違うかもしれませんけれども、そういうニュアンスだったように私は理解をしているわけでございます。そういった意味では、的確な規制が今すぐにどうしても必要だといわれていたわけでありますけれども、その点についてはいかがでしょうか。
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◯宮台参考人 先ほどの繰り返しになりますが、まず社会が、プライマリーな、つまり第一のプレーヤー、当事者です。そして行政は、セカンダリーな、つまり第二の当事者なんです。社会からの要求があった場合にこたえるのが行政の責務ですから、社会が、さっきの雨漏りバケツでいえばバケツ、つまり緊急避難を要求しているのであれば、それにこたえるのが行政の責務である。これはもとより明らかです。
しかし、例えば社会が当事者としての能力をなぜ発揮できないのかということについての分析、情報の開示、そうしたものを、行政はしているでしょうか。ヨーロッパの、特にEU諸国の年間就業時間は千四百時間台です。イギリスだけが例外で千七百時間台ですね。アメリカも大体同じような感じ。日本は残業を除いて千九百時間台ですが、残業を含めると二千ないし二千百時間台です。通勤時間を含めると、一日三時間以上多く仕事に時間をとられています。
この状態を放置して、社会で、あるいは親と子どもの協力によって問題を解決していこうなんていっても、それは空念仏ですよ。つまり、その問題に実は絡むのがワークライフバランスということで、日本では、なぜか私生活、趣味の時間をふやすことだというふうに誤解する向きが多いんですけれども、そういう意味ではない。社会のことを社会が解決する。屋根が破れていたら自分で屋根をふき直す力、これを社会が回復する。これが本義です。
したがって、何事もそうです。社会はいいとこ取りができないんですね。総合的な政策によって社会の分厚さを深めていくと。もしセカンダリーな、つまり緊急避難的な必要から行政が介入的にかかわる場合も、それがあくまで二義的なものであり、したがって抑制的でなければならず、本来の姿を社会に取り戻すためのメッセージなるものが、本当はこういう条例だったら、なければならない。そういうふうに私は考えます。
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◯吉原委員 ありがとうございました。
それでは、きょうの資料をいただいておりますけれども、その五ページのところでも、ちょっと記入いただいておりますけども、設定に関係なく子どもに見えることを取り締まれば日本的表現への死の宣告、こういうことを書かれているわけであります。
条文上も、都の説明でも、十八歳未満である旨の客観的な表示があるものを対象にする、こういうことになっているわけでございまして、そういった意味でいえば、成人でも子どもに見えればだめだよ、こういうことは書いていないように思っているわけですが、その点についてはいかがでしょうか。
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◯宮台参考人 先ほど申しましたように、都の質問回答集は基本的に司法の条例解釈を全く拘束しません。もちろん、法廷におきまして、例えば審議過程を知っている役人さんや議員さんが法廷に呼ばれて証人として発言したことが、裁判官の心証を左右することはもちろんあり得ます。しかし、これは一時的なことです。代がわりが進み時間がたてば、どのみちそういうプロセスはあり得なくなってしまいます。
先ほど申しましたように、憲法は立法意思がすべて、法律は条文がすべてです。条文に何を書いてあるかということが実はとても大事で、条文に書いてあることは、もう一度申しますと、視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写したもの、これであります。何が入る、何が入らないという明確な規定はありません。
以上です。
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◯吉原委員 もう時間も終わっていると思いますけれども、一点だけ、早口でお尋ねをさせていただきたいと思います。
先ほどのように、きょうの意見書、資料の中にも入れていただいてあると思いますけれども、メディアにおける性描写が与える影響に関する強力効果説、そして限定効果説について述べられているわけでありますが、その影響の強さや条件についてはともかくとして、いずれにいたしましても全く影響がないというふうには書かれていないように思っているわけでありますけれども、影響があるのかないのか、時間もあれですが、一言でお話しいただくとすればどちらになるのかお尋ねをして、質問を終わります。
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◯宮台参考人 一般に表現物は、享受者に影響を与えるのが当たり前です。影響を与えるためにかかれているんですから。しかしそれが悪影響であるかどうかが問題で、一般に、犯罪者としての資質を育てるかどうかということについては、無条件でそういうことは起こらないということが証明されています。犯罪者の資質を持った人間にきっかけを与えることがある。これも統計的には証明されています。
犯罪者としての資質の醸成は、メディアを含めた、基本的には受容環境、あるいは受容環境を含めた人間関係の全体なんですね。それが資質を構成する。逆にいえば、子どもが、孤独に長時間、ゲーム、アニメ、あるいはその他のコンテンツに長い間接触するように放置されている場合には、メディアのコンテンツも、放置されているということがもたらす孤独の感情、あるいは放置されている間に、放置されていない人間なら人間関係から学ぶことができるきずな、そのほか。これが存在しないということによって資質が構成される。これがジョセフ・クラッパーの議論です。
僕はこの議論、適切ではないかと思います。メディアが悪人、それはあり得ない。メディアを放置する社会、人間関係、これは問題です。その場合の社会、人間関係は、行政のことではありません。
以上です。
◯吉原委員 どうも、きょうはお忙しいところありがとうございます。
それでは、私の方から一、二点だけ、お尋ねをさせていただきたいと思います。
現在の制度でありますけれども、この条例は制定当時から、次代の社会を担う青少年が社会の一員として敬愛され、よい環境の中で心身ともに健やかに成長することを願うものであると思います。そしてまた、青少年みずからも社会の成員としての自覚と責任を持って生活を律するよう努めなければならないという理念のもとに、昭和三十九年に制定されたものであります。もう既に、先生も長年この問題に携わっておられるので、ご承知おきだと思います。
この条例の目的についても、青少年の環境をよりよくするとともに、青少年の福祉を阻害するおそれのある行為を防止することによってあくまでも青少年の健全な育成を図ること、こういうことにしているわけであります。この趣旨のもとで、先ほど申し上げたような、青少年の健全育成を阻害するおそれのある図書類については、まず出版社や販売会社などの関係者が自主的な努力をして、そこから漏れた著しく卑わいなものについては、都が指定することで、青少年に見せない、売らない、いわゆるゾーニング規制を行う。こういうことで今まで努力をしてきたことは、ご理解をいただけるものだろうというふうに思います。
そこで、田中先生、弁護士会の方の意見書としても、そもそもこの青少年健全育成条例が、子どもを支配、監視、育成の客体として取り締まりの対象としている、こういう意見を付されているわけでございます。ということになりますと、先生はこの条例はそもそも撤回した方がいいと、これからの条例についてはそういうお話をいただいたように私は認識をしたわけでありますけれども、そもそも、この条例、意味がない、ない方がよい、こういうふうに思われている部分が多分なのか、その点についてちょっとお尋ねをしたいと思います。
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◯田中参考人 青少年条例の趣旨と歴史については、今ご指摘があったとおりだと思います。私も二十年近くこの問題にかかわりましたけれども、率直にいいますと、一九九〇年代までのさまざまな議論がありましたが、青少年条例やそれに伴う議論は、先ほどお話があった青少年の健全な成長を保障する、その裏は逆にいえば、青少年そのものが人格を持った主体でありまして、自主的に考え判断していく、それを保障し、はぐくむという理念に沿ったものだと理解しています。ただ、どうも、それだけでは説明がつかない部分が多々出てきているのも事実だと思います。
これは図書規制ではありませんが、私どもは淫行処罰規定の導入には随分反対をいたしました。みだらという抽象的概念でもって青少年の行動を規制することは、かえって青少年の成育、自主的な成長を阻害するおそれがあると。そこから、むしろ客観的な買春という概念を生み出された青少協に、ある部分、賛同した部分がございます。これが入ったのがたしか一九九七年でしたか。しかし、それは二〇〇五年に淫行処罰に変わりました。
あの淫行処罰規定に変わったころから、例えば青少年の外出を過度に規制するとか──これも問題にしましたね、古物を販売してはならない。何が問題かというと、古書店、古本屋に古本を売ってはならない、なぜかというと、古本屋が青少年から古本を買っていいとすれば、万引きする青少年がふえるから。ちょっと、この考え方には同意できないという気がします。そういうあたりから、ややこの青少年条例が治安条例的側面を強めてしまったのではないか、その都度批判をしてきたところです。
ただ、あえていいますと、図書規制については、東京の青少年条例は、さっきいいましたように一番最初の原型を維持してきました。個別指定であり、具体的な危険のある図書について慎重に審査する、抽象的な概念を入れないということでした。それが、先ほど来出ている言論、表現の自由に対する尊重姿勢だったという気がしておりまして、この点においては原型を維持すべきであるというふうに考えておりまして、私は、青少年条例そのものは一切否定する立場に立つ気はございません。あるべきものはあるべきだと、そういう考え方です。
以上です。
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◯吉原委員 続いて、同じく弁護士会の意見書において、子どもの性は成長発達過程にあり、傷つきやすい、そして、心身の成長のバランスがとれて性の自己決定ができる年齢に達し、不当な侵害に対しみずから防御ができるようになるまで守られる必要がある、こういうふうに書いてあるわけでございます。
これは、もう皆さん、どの方もみんな同感できる文言だろうと私は理解をしているわけでございますし、青少年健全育成条例のこれまでの不健全図書指定制度、そして、今回、議論になっております追加される基準は、まさにこの必要にこたえるものであるというふうに私は受けとめているわけでございます。
次に、東京都や業界、事業者が青少年の健全な育成のために行ってきた青少年への販売規制制度、それを踏まえて追加される今回の規定については、都民や青少年の権利に最大限配慮し、可能な限り限定的なものになっていること。そもそも、青少年への販売を制限するだけであって、作品をかくことも出版することも自由である。このことについては、これまで、委員会であっても東京側の説明であっても、明らかになっているというふうに私は理解をしているわけであります。
このような販売規制が表現の自由を侵すものである、こうご主張されるとするならば、もしそういうことであるとするならば、どこにそういう根拠があるのか、おわかりになる範囲で教えていただきたいと思います。
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◯田中参考人 やや総論的質問だと思いますんで、総論的な言論からお答えさせていただきます。
言論、表現の自由の中核が、表現をし発表することである、このことは私も異論はありません。
しかしながら、言論、表現の自由というものは、出版したものが正しく人々に伝えられること、逆に人々の側からいえばその出版物に自由にアクセスができるということが相まって、初めて全きのものになります。
極端ないい方をすれば、かいてもいいけれども配っちゃいけないよという表現があるとすれば、意味を持ちません。考えてもいいけれども発表しちゃいけない思想信条の自由に、意味があるのかという問題と同じです。
では、青少年は、その出版物あるいは言論、表現にアクセスする権利の主体ではないのかと。確かに、本当に小さい三歳、五歳の子どもに権利主体性を考える、これは無理だと思います。だから、家庭の中に卑わいな文書を持ち込んで、本当にいたいけな子どもに見せていいかといったら、これは本質的に親の自覚にゆだねるしかない。そのための説得や運動が必要だと思います。
青少年条例が問題にしているのは、少なくとも一定の自己判断能力を持っている青少年、しかしその青少年が成人に達していないがゆえに未熟な部分を持っていて誘導されてしまう、ここをどうするかという議論だったはずです。そうであるとするならば、その青少年から遮断すべきは、極めて限定されたもの、つまりその青少年の自主的判断能力にゆだねることができない、犯罪を誘発する、自殺させてしまうというものは、確かに遮断すべきだと思います。
今回の規制はそういうものから広範に広がってしまっておりまして、最低限の規制だと、あるいは、それは言論、表現の自由に抵触しないんだという考え方には、残念ながら私としては同意ができない、これがお答えであります。
以上です。
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◯吉原委員 その意見書も含めまして、いろいろな意見等を読ませていただいたわけでありますけれども、その中にも、規定があいまいだというところもあったと思いますし、乱用のおそれがある、こういうお話もあったと思います。過剰な自主規制が行われるおそれがある、こういうお話もありました。そしてまた、子どもの健全な成長を阻害する科学的な証明がないとの意見がなされた場合もあったと思います。
こういったものの規制については、岐阜県の同種条例に関する最高裁の判例の補足意見の中で、厳密な科学的証明がなければ違憲であるとはいえないと示されていると私も聞いているわけでございます。
一方で、現実に、子どもに対する強姦や近親相姦をさも当たり前のように描いた漫画もあるわけでございまして、そういったものを初めとして、子どもの性交が全般にわたって描かれているような漫画を子どもがだれにもとめられずに買うことができるような現状が、今、あると思っているわけでございますけれども、そういった漫画を見て、大人がこういった種の漫画を子どもに見せたくないとか、見せるべきでないというふうに、多くの皆さんは思っているんだろうと私は思うんですね、現実の中では。
こういった現状の中にあって、そもそも、漫画が子どもに悪影響を与えるという科学的証明がなければ、何の対策もとってはならないのだろうか。判断を先送りすべきであるというようなことは、私は、大人としても、今の社会の状況の中にあっても、やっぱり無責任さがそこに残るのではないかなというような思いがしているわけでございますけれども、先生はいかようにお考えでございましょうか。
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◯田中参考人 お答えします。
先ほどの岐阜県条例についての最高裁判決は、少なくとも今回提案されているような広範な規制に関するものではなく、たしか、性的感情を刺激する表現について指定をしたものについての判例のはずです。かつ、包括指定であれ個別指定であれ、性的感情の刺激というのは性的非行を立法事実にしていますから、実際の運用は相当限定せざるを得ない、これが法の基本なんです。
そうすると、限定された立法事実であっても、例えば性的感情を刺激する表現を見たらその子は必ず性的非行を起こすと、この蓋然性が立証できるかといわれたら、確かに立証できないはずなんです。その場合に、それが立証できなくても規制することは違憲ではない、こう考えたのが岐阜県条例です。
それは、ですから、今までの青少年条例の指定についてはそのとおり当てはまるかもしれません。しかし、今回の抽象的な基準による指定の拡大については、まず当てはまらないものと私は考えています。
これは繰り返しになるんですが、多くの方々がそのようなものを子どもに触れさせるべきではないというふうに考えておられるのは、ひょっとするとそうかもしれません。しかしながら、では、触れさせるべきでなければ、それを法によって遮断して、子どものアクセス権を制約して本当にいいのかという問題になると、多くの大人が、相当の距離があるはずです。
例えば、犯罪や戦争についての描写については大変残虐である、よって、これについては子どもに見せたくないと思われる親が多いかもしれない。しかし、子どもが生育していけば、十八歳にならなくても、例えば犯罪問題やあるいは戦争の問題に関心を持ってみずからそれにアクセスするかもしれない。それは、その青少年の成長過程の問題として明らかに有害といえるもの以外は、尊重すべきではないか。これが、東京都の青少協が何度も答申に書かれた性的自己決定能力の育成尊重という理念ではないかと思います。やはり今回もその理念に立って考えるべきというのが私の見解です。 以上です。